「東北に住んではいけない」という罪悪感に気づいたお弟子限定リトリート

こんにちは。テツコハナヤマです。

昨年6月、仙台市で2日間、根本裕幸さんのお弟子を限定にしたリトリートセミナーがありました。

宿が取れなくていったんは断念しました。1週間前に取れて急きょ参加したのです。

そのセミナーは、いま思い出しても、荒海だったと思います。冬の日本海!!

カウンセラー修行したお弟子向けなので、根本さんは手加減抜きだったのかもしれません……… 直球勝負の悩み、お弟子仲間だからこそできる深い自己開示。

結果、四方八方から、参加者の罪悪感が、辛い気持ちが、飛んでくる、飛んでくる!

人のエネルギーを浴びてしまう私は、その後の約1カ月はフラフラ、無気力、ほとんど横たわったままの状態になりました。

そのセミナーで扱ったテーマは「生と死」、「再生」。

私はいつものごとく、挙手してフォーカスパーソンにはならずに、ひたすら聞くだけ。(聞くだけでも自分は十分なくらい人のエネルギーを浴びるので)。

参加しているだけで、古い自分から、新しい自分へと、生まれ変わったのでしょう。

今まで我慢してきたもの、抑えてきたものが堰を切ったようにあふれ出し、いい意味で、元に戻れなくなりました。

子育てするために選んだ実家近くの環境、親との関係、自然が少ない都内、いつまでたっても子育てが他人事の夫……。

すべてがうんざりだよと、1カ月後には都内を出て、移住先を探すようになりました。
***
リトリート中、私は心の奥深くにある「罪悪感」に触れました。

東日本大震災の時、私は東北に住んでいました。私が住んでいた土地は、内陸部だったので、直接被災しませんでした。

ただ、その後は、仕事で被災地に入り、被災した人々と関わりました。家族を亡くした方とも関わりました。

いつどこで何が起きるか分からない。明日は自分や家族が、生きているかも分からない。仕事を辞めて自分自身を見つめ直すきっかけにもなりました。

そうはいっても、私は直接の被災者ではないし、自分の故郷でもありません。「たまたま住んでいた土地だから、家族や故郷を失った人ほど傷ついていない」とずっと思ってきました。

ところが仙台でのリトリートで、私は「何もできなかった」「申し訳ない」「これ以上、東北に住んではいけない」。10年以上もそう思い続けている自分を発見したのです。

リトリート中に、根本さんは「生き残った人の罪悪感」「サバイバーズ・ギルト」について説明しました。

自分はむしろ関係ない、直接被災していないと思っている人でも、生き残ったことに罪悪感を抱いていることがある。むしろ時間がだいぶ経過してから、10年、20年たって出てくることがある。阪神大震災の時にもそうだったと。

ああ、まさに私のことだなと思いました。

震災後に私はほとんど都内で暮らしてきました。東北があんなに大好きだったのに、なぜ戻ろうとしなかったのか。戻らないどころか、もう住めない、住むこともないと思っていたのか。

「東京は素晴らしい」という両親の東京信仰に縛られた部分もあります。でも本当は、「私はもう役に立てない」「何もできなくてごめんなさい」と、東北に対してずっと思ってきたのだと気づきました。

*****
ある光景が目に焼き付いています。

震災から5~7日後くらいでしょうか。岩手県あたりの道の駅、ふと周りを見渡して、「えっ?」となりました。半数以上が福島ナンバーの車だったのです。

車の中に最低限の荷物を積んで、まるで旅行に行くかのように、逃げてきていたのです。普段着姿の子連れの家族、若いカップル、中年の夫婦。

ナンバーに気づかなければ、見過ごすような、ごく普通の光景でした。

「ああ、日本で難民が発生してしまったのだ。どうして、こんなことに……」

私はその場に、立ち尽くしました。
*****

心の底に眠っていた無力感と罪悪感。リトリート後の1カ月間、その気持ちをフラフラの身体で味わいました。最初はヒリヒリとしていたけれど、少しずつ少しずつ、溶けていきました。

それだけ東北が大好きだったんだね。愛していたんだね。もうそんな思いを抱かなくていい。ということにも気づきました。

そうして、気がついたら、移住先が東北になっていました。

私は東北でもう一度、やり直したいのだと思います。再生した自分と共に。

アバター画像
テツコハナヤマ
毒親育ちが、ロックマンしか愛せず音信不通に苦しむ日々を卒業し、誠実な癒し系の旦那様と結婚。コロナ禍で出産し、産後クライシスに荒ぶりながらも「毒親育ちが居場所を見つけて、ライフワークと家族と生きる」日々を発信中。根本裕幸氏のお弟子さん1期。 詳しいプロフィールはこちら。