朝の瞑想が最近の日課となっている。
その日、ピンときた樹木や花の前に立ち、目をつぶって瞑想する。
ポーズは太極拳の立つポーズ。肩幅に足を広げて、腰を少し落として、仙骨を立てて、両手を木をつかむように広げ、リラックスするポーズ。毎日10分ほど行っている。
このところは決まった枝垂れ桜の木の下で瞑想していた。
今日は何となく、小川の方へ向かった。せせらぎの音が心地よい。
水の流れる音というのは、とらわれた感情を洗い流してくれる気がする。
昨日の朝の瞑想では、ヒーリングを受けたお弟子仲間・IZUMIさんからの気づきがあった。
今日はそこがすっきり晴れていて、新しい流れが起きそうだ。
しばし目をつぶって小川のせせらぎに耳を澄ませていた。
すると、突然気づいたことがあった。
「愛されていないと思うのは、エゴである」
このところ、夫との関係で悩んでいた。これ以上、関係を継続することができるのかどうか。いわゆる”デッドゾーン”だ。
夫から愛されていない部分ばかりが目についてイライラしていた。
家事、育児、お金、言った言わない、やり取りのすれ違い……。
細かいところばかりに目が行っていた。
だが、それは違う。見るべき次元がまったく違うということに気づいた。
私は愛されているのだ。夫から愛されているのだ。
気づいてから、私はそのまま小走りでコンビニにアイスコーヒーを買いに行って、飲みながら家へ戻った。
アイスコーヒーを飲みながら大股で歩くうちに、これは夫に限ったことではないなと思った。両親、周りの人すべてに当てはまるものではないか。歩きながら、この感覚がさらに腑に落ちて、身体になじんでいった。
すべては「愛されている」という前提で世界を捉えていく必要がある。
それが、すとんと腑に落ちた。さまざまな人からこの話を聞いたことがあったが、毒親育ちの私にとっては現実的ではない世界、おとぎ話の遠い世界であった。
そりゃそういう前提で考えれば人生はうまく行くだろうよ。でも、そんなこと簡単に思えるはずないし、ハードルが高すぎるよ。親が育てる過程で、健全に愛してくれたら話は別だろうけどさ。そんな簡単にプログラミングを変えられたら、こんなに苦労はしないよ。笑
だが、今日は不思議なことに、この事実をストンと受け入れることができた。唐突に。おそらく、理屈なんてない。
すべての人は、心の底で誰かを愛しているのだ。それが表面上の行動や言葉としてのぼってくるかどうかは分からない。これが、ヒーラーズスクールで学んだことである。
それが、頭では分かるようになったし、そう感じることが増えてきてはいた。でも、そうじゃないと思うことも度々あった。「心の底では愛している」。この概念は、頭で理解するというよりも、信じる信じない、何かに身をゆだねるという感覚に近い。
ヒーラーズスクールが始まって、特にこの数カ月、心の中が絶えず葛藤していた。その葛藤がふっと消えたというべきか。葛藤を担っていた脳内の膨大なメモリが急に空いて、軽くなった感覚というべきか。
私の内側と外側が均衡になったような、不思議な鎮まり。静けさ。
ああ、これが腑に落ちたということか。小川の隣の車道を、車が音を立てて通りすぎていく。
なんということはない。いつもの朝。通行量が増えつつある朝の時間帯。ただ、何が大きく変わった。私の世界の捉え方が変わった。いや、変わったというべきかは疑問である。「私はこの感覚を知っている」と思った。
赤ちゃんの頃なのか、幼い頃なのか、胎内なのか、いつの頃なのか分からない。ただ、私は「愛されている」「世界から受け入れられている」と無条件で信じて、誰かに身をゆだねて生きたことがある。
今書いていて気づいたのだが、これは講座の最終回にジュンコさんが授けたイメージワークとつながる話だ。
ヒーラーズスクールの学び。そのグループメンバーのゆうこさん、ほのかさん、MINOさん、IZUMIさん。その他、相談に乗ってくれたお弟子さん方。これらの人々との癒し癒されの相乗効果が、ここまで私を連れてきてくれたことは間違いない。
「愛されていないと思うのは、エゴである」
私は愛されている。これを前提に二人の関係を捉え直す。愛されている前提で捉えて、初めて真の相性が分かるのだろう。お互いの成長過程や、人生のタイミング、価値観、すべてが合わさって、二人に”ご縁”があるかどうか。この感覚で捉え直した先に、関係の行き着くところがある。
「目覚めた」「これが悟りか」という感覚はない。
新しい服を着たような、さりげない感覚だ。でも、悪くない。この服、慣れないけど、着心地よい。
私は、この感覚から、世界を捉えなおしていくのだろう。