心理学や分析に捕らわれてたまるかバカヤロー。私は私なのだという怒りと喜びと。

毒親育ちの私がお世話になった心理学、特に根本裕幸さんの下で学んだビジョン心理学から卒業の時が来ているのかもしれない。

私を救ってくれた心理学。ビジョン心理学以外にもさまざまな書籍を読んだ。学術的なものからスピリチャルまで、心理学と名の付くものは乱読した。数えてはいないが、100冊は軽く超えるのではないか。

大学院に進んでみるのもいいのかもしれない。そう思ったこともある。

必要に迫られたとも言える。私が私を生きやすくするために。自分を解放するために。自分を取り戻すために。焦燥感にとらわれながら、藁をもつかむ気持ちで、ひたすら学んだ。

ただ、そうやって飛び込んでみると、楽しかったのだ。人の心とはいったい何なのか? どうすれば生きやすくなるのか。人と気軽に付き合い、話せるようになるのか。本音とはいったい何なのか?

私は純粋に人の心理というものを、むさぼるように勉強してみたかった。この10年で、それが叶った。

いろいろなセミナーに顔を出した。新しい知識、カウンセリングのやり方を見つけると、すぐに飛び込み、実践した。動画も沢山見た。ここ1年はオープンダイアローグを学んでいる。

アダルトチルドレンの克服、毒親との対決からの解放、婚活、パートナーシップ、子育て。さまざまな場面で役に立った。

私は分析が得意だし、自分でも大好きだ。分析癖を自分でも愛している。分析はほとんど無意識に行っているし、自分で苦にはならない。それほど自分に沁みついた習慣だ。

ただ、ここ半年くらいで、自分の分析癖について、疑問を持つようになった。

分析というフィルターを通すことで、何か大事なものを取り逃していないだろうか。分析という私の眼鏡で、何かが見えづらくなっていないだろうか。

もしかして、分析なんてしなくても、ただその人とまるごと対峙すれば、いいのではないか。

ここ半年くらい、ふとそう考えることが増えてきた。

そもそも分析をするとジャッジが入る。私はジャッジ抜きで、その人そのものと接したい。分析というツールなしの、その人そのままの大きさや魅力とでも言えばいいのか。

スピリチャル的にはエネルギーとか魂とか、そういうものかもしれない。

もっとも例え分析を抜きにしたとしても、人は主観からは逃れられない。世界を見る時には、自分自身の投影が入ってしまう。

それならば、私は自分自身のエネルギーそのものに照らされた投影の世界を見てみたい。ガチンコな自分自身の、純度の高い、投影の世界を。

私は分析に救われてきたし、これからも分析は自分も他人も救うツールだと思っている。

不健全な環境で育った人たち、生きづらさを抱える人たちには、自分自身のフィルター以外の客観的な分析が必要な時期があるのだと思う。

私は心理学的な分析に救われてきた人間だ。

ただ分析は、もう十分に私を救ってくれた。

これからは分析を手放して、私の感性をまるごと味わいながら、生きていきたい。

心理学的な分析やジャッジに捕らわれてたまるか、という怒り。

ビートたけし的に「バカヤロー! そんな高尚な学問、オイラは知らねえよ」という感覚。

私は私なんだから、分析なんて必要ないし、もうそのまんま、自由に感じたままに生きていけばいいじゃんという、ある意味の無鉄砲さ。

糸の切れた凧になってしまう?

いや、そんなことはない。私は私とつながっているから、大丈夫。

人から見たら、糸の切れた凧に見えるかもしれないけれど、自分の中では全部つながっているし、辻褄が合っている。

スティーブ・ジョブズの言う”Connecting the dots”がいま本当に腑に落ちている。

大丈夫、私は私のまんまで、好きを炸裂させて、生きていけば大丈夫。

もう何者にも捕らわれてたまるかという怒りと、分析から解放された喜びと。

ふつふつと沸く二つの思い。このたぎる感情こそが、まさに自分自身なんだなあと。

二つの間を振り子のようにブンブン動くことで、私は私自身を取り戻し、私そのものの在り方に還ろうとしているようだ。

 

書き終えたら、「これでいいのだ~これでいいのだ~♪」と天才バカボンの曲が空耳のように聞こえてきた……笑。

 

もちろんこれからも、定規やメーターを引き出しからスチャッと出して、振り返って分析することはあると思う。たまにだけどね。